『砂時計』
『実家に帰らせていただきます』
うちに帰って食卓の上に置かれていた一枚のメモ用紙に書かれていた言葉だ。
そう言えば、インターフォンを鳴らしても誰出なかった。いつもなら、ただいまと言うだけで、渚が返事をする前に明けに走ってくる筈の汐も、今日に限って言えば出てこなかった。
おかしいと言えば、そう言えば、窓をみても灯りが零れていなかった。その時気付くべきだったのかも知れない。俺は、テーブルの上の真実を見て愕然として、手にしていたプレゼント二つを力無くテーブルに置いた。
何故、渚が出ていってしまわねばならなかったのか……
朝は、二人ともあんなに機嫌良く送り出してくれたのに……
一度は子機に手を伸ばしたが、思い直して自分に反省を促した。
必死で原因を思い返すんだ、俺。
あのことだろうか……
……この間の話だ。
居間で渚がこんな事を言った。
いつもは、俺の稼ぎも知ってか余り希望を言わない渚がである。
「こんなふうにわたしも朋也くんお揃いの物を着たいですっ」
なんだか思い詰めたような物言いでいった。
手にしていた駅ビルデパートの広告には、幸せそうな夫婦が趣味の良いお揃いのジャケット着てさりげなくポーズ決めている。どうやら歳末セールの広告らしい。
「ペアルックか……しかし、この歳になってつぅのもなあ」
小学校高学年の娘がいる三十代のバカップルって言うのもなかなか絵にならない。
「歳なんか関係ないですっ! 先生を見て下さいっ」
先生ってもしかして……
「公子さんがどうし……」
半ば言いかけたときに、思い当たるフシがあった。
この間の話だ。普段の芳野さんには考えつかないような派手めの服装でして出勤してきたことがあった。そのとき、俺は、何か訳有りだというのがその表情から察したので何も聞かなかった。生憎、今年の新人にはそんなこと芸当は出来ず、『芳野さん、どうしたんスか、そのジャケット……』と余計なことを訊ねてしまい、『妻とお揃いだ』とばつが悪そうにそう答えていた。後日、汐を連れて夕飯前の散歩に出た帰りに、件のジャケットの二人に出逢った。汐が嬉しそうに、
『こんにちは。芳野お兄さんと公子先生、おそろいでカッコイイ』と声を掛けたとき、公子さんは、『汐ちゃん、ありがとう』と笑顔で返してくれたが、芳野さんは居心地が悪そうだったのを覚えている。
まあ、公子さんの趣味はそれぞれ単体では悪くはないんだけれど、アレを来てペアで歩くのは相当恥ずかしいぞ。同じ世帯持ちとしては同情してしまう。
「却下。俺には恥ずかしくて出来ねぇ……。いくら、渚の頼みでもこればっかりはなぁ」
「残念です。折角、朋也くんにも似合うと思ったのに……」
残念そうに広告を折り畳んでいる渚が悲しげだったが、その時の俺は、申し訳ないと思いつつもホッとしていた。
それを根に持ったのか?
いやいや、渚に限ってそんなことはないと思う。
俺に対してストレスが溜まって嫌気が差して愛想尽かしたなら兎も角、ペアルックを断ったぐらいで、出ていくとは思えないし、そんな風に渚を育てた覚えはない。というか、育てたのはオッサンと早苗さんなんだが……
……それじゃあ、あのことか?
汐が塾に行きたいと言いだした。
何でも、友達が有名進学塾に行っているとかで何かと凄いらしい。
塾と言えば、早苗さんの『古河塾』がある。確かに、基礎からみっちり教えてくれるアットホームな塾としてその業界では知れ渡っているらしく、わざわざ遠方――と言っても駅二つか三つぐらいの話だが――からも通ってくる。汐も塾生としてではないが、早苗さん本人から勉強を見て貰っているのでその恩恵を受けているらしく、いつも貰ってくる成績表を見ると、俺の娘に似合わず「5」が整然と並んでいのには驚いた。この場合、当然五段階評価である。
「こんなに5が並んでいます。やっぱりしおちゃんは偉いです。でも、わたしは一つも取ったことないです……」
……それはそれで問題だった。
「これだけの成績ならいいんじゃないのか」
我が娘ながら天晴れな成績に、
「でも、これからのこと考えるとどうなるか分かりません……。高校受験とか、大学受験とか有りますから」
渚も多少気が早いようだが、俺よりしっかり汐の事を考えているらしい。全く過ぎた母であり過ぎた妻だ。
「でも無理強いはよくねぇぞ」
「しおちゃんの希望です」
結局その時は結論が出ず、最終的に高校受験までには考えようと言うことで先延ばしした。しかし、こうやってみると、渚には教育ママの素質もあるのかも知れない。それが悪いとは言わないが、行き過ぎないように、俺もフォローしてやらないとダメだな。
しかし、これが原因とも言い難いぞ。
……もしかすると
「今年はクリスマスイヴから十日ほど纏めて休みが取れそうだぞ」
そう言ったのは社長の芳野さんだ。
盆暮れ正月でも休みが取りづらいのがこの業界の常だ。
ことに、この二、三年は芳野さんが独立のに付き合った陰で、まともに纏まった休みが取れたことがなかった。それが漸く今年になって落ち着いたお陰で、何とかいい塩梅で休みが取れるらしい。しかも、クリスマスイヴからとは気が利いていた。
実際、問題なく進み、二十二日までは平穏に過ぎていく。
お陰で
「今年は、イヴにどっか連れてっいってやれるぞ」
と渚と汐に意気込んで言ってしまう。
「嬉しいですっ。イヴに何処かに行けるなんて思ってなかったです」
と渚が汐と一緒になってはしゃいでいた。どちらが子供なのか分からない。
イヴといってもなぁ……。
道は混むだろうから、結局三人揃ってウインドウショッピングして、二人に気の利いたプレゼントを買って……となるだろうと想定していた。
もちろん、それから、夕食は外食となるんだろうけど、まあ、俺自身、その頃になるまで当てにしていなかったせいで、何処にも予約を入れていなかったから出掛けると言っても、お洒落なお店というわけじゃなくて、近所のファミレス……当然、渚が働いていたあそこにでもしようかと漠然と考えていた。
だから、その日の昼休みの間に店長と電話で話したら、『良いですよ。ご家族三人分その分ぐらいなら何とでもしますから。お宅の奥さんにはお世話に成りっぱなしですからね。期待しないで待ってますから、明日の昼ぐらいまでには連絡して下さい』と二つ返事を受け取っていた。
雲行きが怪しくなったのは二十三日の朝だった。
「悪い、明日飛び込みの仕事が入った一日だけ出てくれないか」
芳野さんがすまなそうに言った。
「まあ、そんなことだろうと思いましたけどね。いいっすよ」
昼休みには、キャンセルの電話。
帰ってからは平謝りに謝るつもりだったが……
「明日、お仕事がんばってくださいね」
「パパ、明日お仕事頑張ってね」
帰宅してと渚と汐の二人に言われてしまうと、かえって二人にはいつも申し訳ないと思い、変な居づさを感じる思いだった。
今日に限ったことではない。こんなことがしばしばだから、愛想を尽かして親子で出ていってもおかしくない。何度二人の予定をキャンセルしてしまったことか……
蓄積されていく想いのエネルギーは、絶大な物なんだろう。だから、朝はなんともなく自然に振る舞っていられても、いきなりブッツリ切れたなんて考えたくないが、そう思えて成らなかった。
渚と汐には苦労かけっぱなしだったからなぁ……
今更反省しても遅いかも知れない。
時間が砂時計の砂なら、同じ器の中を落ちて溜まるだけで逆さに返せば、もう一度同じ状態へと自然に回復していく。ただし現実は砂時計のように往復の時間の繰り返しではない。無限に拡がる砂丘の中から無造作に両手ですくい上げた砂が、指の隙間から零れ落ちてただ呆然と見つめているような物だ。砂丘に零れ落ちた砂は、もう二度とその手のひらに戻ってくることはあり得ないし、仮に、もし再びすくい上げられたとしても、それは砂時計とは違って全く同じ砂なんてことはあり得ない。
ふと思った、父さんならどう考えるんだろう。
実家にいる父に電話を掛けたくなって受話器を取る。
誰も出ない。仕方なく、教えられていた携帯番号を回した。
電話に出た父はこういった。
『それなら、おれより渚さんに先に電話するべきだろ? 忙しいからこれで切るからな』
妙につっけんどんだったが、適切なアドバイスだった。
そして、俺は不安に駆られながら、古河家の番号をコールした……
「岡崎ですが、渚居ますか?」
『あっ、パパっ! ママに替わるね。ままぁ』
出てきた汐がそう明るく言って替わった相手に俺は誠意を込めて謝った。
「ゴメン渚……俺が悪かった」
『……やくん? どうしたんですか?』
今、居間にいる。居間と言っても家の居間じゃなくって、渚の実家のだ。
訪れると、オッサンが居て、父がいて、芳野さんと公子さんがいて、当然のような顔をした風子もいて、渚と汐と早苗さんがそれぞれに配膳をしている。飾り付けの済んだ居間の中央には特設のテーブルが置かれて、ケーキが鎮座していた。勿論これは、渚の誕生日とクリスマスを同時に祝うためのものだ。
「……でなんで、『実家に帰らせていただきます』なんだ?」
俺は漸く配膳を終えて特等席に座らされた渚に訊ねた。
「お父さんがそう書き残して来いっていったんです」
オッサンの仕業か……だとおもった。突っ込む気にもなれん。
「父さんも、芳野さんも知ってるなら何で教えてくれなかったんです」
「秋生さんに口止めされててな」
そう言って、オッサンと顔を見合わせてニィっと二人して笑った。
「おまえの渚さんへの愛が確かめられた、ここから二人はさらに深い愛を育んで行くんだ」
結果的にはそうだったが……あんな想いは二度とゴメンだ。
当事者の渚はと言うと、先ほど、渡したプレゼントを見つめていた。
「これ、開けていいですか」
「構わないから開けてみろ。びっくりするから。……寧ろ俺が」
その小さな包みを開けて取り出すと、
「時計ですっ。しかも高そうです」
実際、多少根が張った代物だが、そのぐらいの甲斐性なら俺にもある。
「しかもお揃いだ。ついでに汐のもお揃いで揃えた」
「おまえ、俺様を差し置いて、渚と汐とお揃いの時計をするのか」
といつものようにオッサンが騒いでいたが、当然のように早苗さんがわたしが居ますと制していた。
流石に複雑そうな顔でこちらを見る芳野さん。あれ懲りているのだろう。
俺だって、あんなのは嫌だったからこれにしたんだよ。
これからも、その時計みたい三人で時を刻んでいくんだからな……
〜fin〜