『鈴の音』
病室に入る早春の日差し。
来るはずの無かった優しい季節
まだ冷たいが心休まる風…
(1)春の予感
「…お姉ちゃんまだかな」
お姉ちゃんの姿を窓越しに探し一人待ちわびる私。
明日は、退院の日。
今日はお姉ちゃんが私の荷物を荷造りに来てくれる。期待に満ちあふれる時間。
…コンコンッ!
私の病室をノックする音が聞こえた。
「美坂さーん、回診ですよ」
「…はい」
残念ながら、病室のドアをあけて入ってきたのは、私を診て下さっている看護婦さんと担当医師の天野先生だった…。
「栞ちゃん、具合はどうですか?」
気さくに話しかけてくれる天野先生は、結構若く見える。ある時、先生に年齢を訊ねた事がある。そのときも、苦笑しながら、実は、四十代半ばと伺ったときは驚きを隠せなかった…。
「とてもいいですよ、先生」
そう私が答えると、
「それは良かった。経過いいし…これで一安心ですね、しかし…」
先生は、度のあまりきつくない眼鏡を、ずり落ちた鼻の頭から治しながら、
「明日は、いよいよ退院ですね。またお姉さんが迎えに来るんですか?」
「はい!今日も、これからお姉ちゃんが、荷造りに来てくれるんです」
「あ、羨ましいなぁ…僕は、一人っ子だつたから。そう言う話を聞くと、ほんとに羨ましいですよ」
「あれ、先生一人っ子だったんですか?」
脇に控えていた看護婦さんが初めて訊いたという様な顔つきで言う。
「あれ、話したこと無かったかな…」
「先生、結構ご家庭のことは話されないから…」
なんか一寸残念そうな顔で言う看護婦さん。
「…そうか。ごめん、ごめん」
慌ててフォロする先生。
「病院内でも、年頃の娘さんがいるって言う事以外は謎だって噂になってますよ…」
「謎って…そりゃひどいなぁ、脚色しすぎじゃないかぁ…」
「それは、噂ですから少しは脚色入っているでしょうけれど…」
看護婦さんが困った顔様な、あきれたような複雑な表情でいった。
「別に秘密にしているわけじゃないし…訊かれないからいわないだけだよ」
先生も困った顔をして、ため息を付く。
「…先生」
「なんですか?栞ちゃん」
普段の笑顔に戻っていう。この笑顔は、どこか人をほっと安堵させる表情だと思う。そう言えば、どことなく祐一さんに共通するものがあるようにも感じる笑顔だと思う。
「先生、お子さんがいたんですか?!」
「ええ、二人…いや、今は一人かな…って栞ちゃん。そんな、『鳩が豆鉄砲食らったような』顔するほどのものじゃないと思いますが…」
どもやら、私はよほど驚いていたらしい。
「わっ、私…。今そんな顔してましたか!?」
「はい、もうばっちり。そう言う表情も案外可愛いですね。彼氏が羨ましいですよ」
そういうとも、にやっと意地悪く笑った。
「うー…。そんな事言う先生嫌いです…」
多分このとき鏡に写った自分を観る事が出来たなら、真っ赤な顔だったに違いない。だって、なんだか、ぽーっと熱く火照っていたから…
「先生、女の子からかったらだめですよ…
「そう?」
「…そうですよ、患者さんが女の子だとからかうんだから…」
「そうなんですか…?」
「これでも、僕は学生時代『ナンパ皇帝・天野』って言われていたんだから」
妙に誇らしげにいう天野先生。
「いってて恥ずかしくないですか…」
看護婦さんは、完全に呆れ返っている。
「ははは…油断していると襲っちゃいますよ〜」
戯けた表情をしていう先生。
「それは、駄目ですよ。私は、もう祐一さんのものですから」
妙な優越感に浸る、私。口に出していうと、結構恥ずかしかったりする。
「一寸、残念」
「からかうのは、その辺にしておいた方がいいと思いますよ、先生。栞ちゃんも先生の冗談に乗らないの!先生って、すぐ調子に乗るんだから…」
「酷いいわれようですね…」
先生は苦笑する。
「仕方ないでしょ…ほんとのことなんだから…」
看護婦さんが天野先生に釘を刺したところで私は
「ところで、先生のお嬢さんてどんな方なんですか?」
「そうだなぁ…」
ボールペンの尻をこめかみに当てて少し考えた後
「…口で説明するより、これ観て貰った方が早いな」
そう言って白衣のポケットから手帳を取り出すと表紙を開いて見せてくれる。
ラミネートコーティングされ、丁度手帳に収まるサイズの写真。ショートヘアーの少女が写されていた。
「落ち着いた感じの方ですね…。あれ、この制服!」
私は、少女が着ている制服に見覚えがあった。だってそれは…
「これ、うちの高校の制服ですよ!」
私があこがれてようやく手に入れたもの。
袖を通したのはまだ一週間程度だけど、お姉ちゃんと同じ制服。祐一さんとの短いながら想い出の詰まった制服だから、見まごうはずはなかった。
「栞ちゃんも同じ学校だったんだ。そう言えば、栞ちゃんも一年生でしたっけ…」
「はい…、でも一週間しか通っていないんです…」
「ああ、そう言えば、あの時…学校に通っていたんでしたね…」
先生は、思い出したようにいう。
「…でも、…それを言うのはよそう。だって、明日からの栞ちゃんは、本当に、普通の女の子なんだからね」
先生は、私の目を見つめながら言う。
「学校に通うようになると…、ひょっとしたら、うちの美汐にも合うかもしれませんね」
「みしお…さんて言うんですか?」
「『美しいに汐』と書いて『美汐』。『汐』は汐留駅の汐ですです。おかしいですか?」
…一寸だけ不安げに
「そんなこと無いですよ。いいお名前だなと思って…」
「そう言ってもらえると、美汐もきっと喜ぶと思いますよ…」
そう言うと手帳を元のポケットに収めようと手帳閉じる…。いや、正確には閉じようと、持ち直した手帳を手元から落としてしまった。
その手帳を拾い上げようとする先生。
…ひらり…
その手帳の隙間から落ちたもう一枚の写真。
拾い上げると、白黒のそのポジには二人の女の子が写されていた。
一人は、さっきの少女。さっきの写真より髪も長めでやや幼く見えた。多分、さっきの写真より前に撮影されたものだろう。その隣に写された仲の良さそうな女の子。長い髪の活発そうな子。
幼なじみか…いや違う。これは、そばにいて安心できるもの、無条件で心を許せる存在。
血を分けた姉妹に対してみせる表情。
そう言えば、美汐さんもさっきの写真ではやや無表情で人を拒んでいるようにも見えたが、この写真では、とても穏やかな笑みを浮かべている…
「…先生、これ…」
私が先生にその写真を手渡すと
「あ、…すまない…」
慌てて手帳に挟み込んで手帳ごと白衣に押し込んでしまった。何となく、今はそのことを訊ねるべきではないような気がして、それ以上そのことについて先生に訊ねることはなかった。
何時の頃からだろうか…
私がこんなところで時を止めて
風を探し求めるようになったのは…
(2)理由
『この丘には妖狐が住んでいるの。』
『妖狐ってなぁに』
『そうねぇ、妖力、わかりやすく言えば魔法ね。それを持っている狐さんのこと』
『ふーん』
『その狐さんはね、妖術つまり魔法ねを操って人に災いをもたらすと言って忌み嫌われていたけれど本当は…』
『本当は?』
『本当は、人なつっこくて人を幸せにしてくれるんだけど…』
『…だけど…?』
『?』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
吹く風は、春を迎える準備に忙しい。
まだまだ、冷たかったがそれでもその中に感じる感覚は、私の閉ざされた心にさえ、暖かさと安堵感を運んでくれるような感覚を覚えさせた。
…それなのに…
またこんな所に佇んでいる。そんな自分に、何となく莫迦莫迦しさを感じいる自分が、ここにいた。
「…まこと…」
ここは、『物見の丘』と呼ばれている場所。
ここから街を一望できる場所。昨日降った名残雪が完全に融けきれずに残る芝生。
この場所には、妖狐が住むと幼い日の私ににそう教えてくれたのは、母だった。思えば、あのときから始まっていたのかもしれない…。
誰かが鈴付きのリボンを付けた仔狐を、連れて戻ってきたのは妹の真琴だった。
…ちりん〜、ちりりん〜…
人なつこそうに仔狐が妹にじゃれるたびに鳴る涼しげな音色。
『かわいいー♪』
妹は、その鈴の音を響かしながらじゃれてくる仔狐の事が、とても気に入ったようだった。私も、妹のそんな姿を見ていたら何となく幸せだった。
『ねぇ、おかあさぁーん。』
妹は、懇願するような視線を母に向ける
『真琴、なあに?』
『この子うちで飼っていい?』
『うーん、そうねぇ…』
『この子の世話は真琴がするから』
目を潤ませて懇願する、妹。
『私からもお願い』
その瞳にも、たまらず私も妹に助け船を出した。
『仕方ないわねぇ…』
私と妹、二人からの陳情に根負けしたらしく、母の方がおれた。
『その代わり、二人で面倒みるのよ』
『よかったなぁ、真琴、美汐』
一緒になって喜んでくれる、父。
『はい』
『うん!』
妹は、喜びの返事に力が入りすぎていた。
『真琴良かったね』
『うん、お姉ちゃんありがとう』
ともあれ、その日から、その仔狐は家族の構成員暮らすことになった。
(3)名残雪
四月。
吹く風に身を躍らせるのがこの季節。
…の筈だけど…
「…名雪、なんだこの寒さは…」
水瀬名雪さんの隣でぼやいているのは、私の彼・相沢祐一さんだった。
「このぐらい普通だよー」
「…尋常じゃないぞ、本当に四月なのか…」
春先、祐一さんの前に住んでいた街では、もっと暖かかったのだろうか…
昨日の暖かさから一変し、一気に寒さがぶり返す。夜半から今朝方まで降った久しぶりの雪の悪戯だった。
突然の寒さのぶり返しに相当参っているらしく、制服の上に着込んだのジャケットの襟を立てて、その中に首を窄めていた。
「ほら、櫻も咲いてるし…」
いつもより早めに咲いた櫻が恥ずかしそう花を披露してくれていた。
「まて、櫻が咲く頃は暖かいものだぞ…。それに…」
…祐一の吐く息が白い
「…なんだ、この白いものは…!」
積もった雪が桜色と白の美しいコントラストを演出していた。
「…綺麗だよ〜」
「…そう言う問題じゃないと思うぞ…」
新学期…
通学路の途中…
向こうから、歩いてくる祐一さんと名雪さん。とっても自然に見える二人の何気ない会話見ていてとても羨ましく思えた。
二人とも、私とお姉ちゃんには気が付かないようすだったので、
「…ねぇ、お姉ちゃん…」
私は、お姉ちゃんの制服の袖を引っ張って、祐一さん達に声をかける催促をする。
「仕方ない子ねぇ…」
お姉ちゃんは、苦笑混じりに言うと、
「おはよう、名雪」
名雪さんの頬を軽く突っついて挨拶がてら呼び止めてくれた。
「香里おはよう、栞ちゃんもおはようだよ〜!」
名雪さんは、今日も元気だった。
「おはようございます!名雪さん…」
「相沢君もおはよう、冴えないわねぇ…新学期早々」
「…当たり前だ!何が悲しくて新学期早々こんなに寒くなくちゃいけないんだ…」
…本当に寒そうだった…
「あら、仕方ないでしょう。『まだ』四月なんだから」
「『もう』四月の間違いじゃないのか…」
「どっちでもいいわ。ほら、栞!」
「…わふっ!」
お姉ちゃんは、私を祐一さんの隣へ押しやる。
「わっ…おはようございますっ!」
「おわっ、おっおはよう…」
祐一さんは、突然のことに驚いていたが、
「香里何のつもりだ」
とお姉ちゃんに耳打ちする。
お姉ちゃんは、にやにやしながら
「惚けても、ネタは上がってるわよ(にやそ)」
「…なんのことだ…」
「あの日…。栞の妙な歩き方に、私が気が付かないとでも思ったの(にやそ)」
「うっ!」
「まだまだね…」
余裕の笑みを浮かべているお姉ちゃん。
「病人相手って言うのはあんまり感心しないけど、栞が望んだことでしょうし…。いいわ、私は相沢君を応援しておいてあげるわ。栞も全快したことだし。その代わり…」
制服のポケットから除かせる何かがキラリと光った。
「あたしの大切な妹を泣かせたら…命の保証はないわ」
「…いつも、そんなものを持ち歩いているのか…」
「…どうかしらね」
にやりと笑うお姉ちゃん。一瞬、それ…メリケンサック…が妖しく光った。…ような気がした。
「…それより…、多分、秋子さんも気付いてるわよ…」
「…秋子さんか…あり得る話だな、あの人なら…」
「知ってて、『了承(一秒)』してるわね、あの人は…」
…ハ〜ッ…
祐一さんとお姉ちゃん、そして私。三人はそろってため息を付いた。
「栞にも聞こえてたみたいだぞ、香里」
「あら、栞も聞いてたの」
「えっ…、あ…」
名雪さんにだけ聞こえないような低い声で、
「いいわ、なら話が早いわ。いいこと。二人とも、避妊だけはするのよ…」
お姉ちゃんはそう言った。
「…わかった…」
もっともらしく頷く祐一さん。
「…おっ、お姉ちゃん…、それに、祐一さんまで…」
「栞もよ…わかった?」
「…そんな事言うお姉ちゃん嫌いです…」
「ねぇ、お母さんがどうしたの?」
いまいち話が見えていない、名雪さんが不思議そうに問いかけてきた。
「なんでもないわよ、…ね!」
「…まあな」
「…あははは…(汗)」
「うー、みんな、何か隠してるよ」
名雪さんは、私たちに疑いの目を向ける。
「そんなことはないぞ」
「そうよ」
「怪しいよ」
不振の目をお姉ちゃんに向けながら言う
「…た、多分、気のせいですよ…」
「…栞ちゃんが、言うならそうかも…」
何か腑に落ちない、納得できない、そう言った表情で首を傾げながら無理矢理納得する。
「なんか、引っかかる納得の仕方ね…」
「…お姉ちゃん…」
「…まあいいわ」
私はほっと胸をなで下ろしす。そのとき…
ちりり〜ん…、
かすかに聴きとれる程小さい鈴の音。そして道の脇からの視線に気が付いた。
「祐一さん…」
私は、電柱の影に不器用に隠れる人影を再度確認すると、祐一さんの制服の袖をそっと引っ張る。
「…あれ」
腰まである長く美しい髪を左右のリボンで結わえた中学生ぐらいの女の子が、そこにいた。
「…真琴…!」
祐一さんがそう叫ぶと、長い髪の女の子は一目散に走り去っていく。
「真琴?!」
祐一さんの叫びに名雪さんも気が付いたらしく、電柱の影から走り去る女の子の姿を視線で追った。
何が起こったのかわからない私は、お姉ちゃんの方を振り向くと、やはり事情が飲み込めていないらしく、さっぱりという感じで、成り行きを見守っていた。
…すると、後ろから…
「…あの…」
振り返ると、ウェーブのかかったショートカットで落ち着いた雰囲気の女の子が後ろに立っていた。
私達と同じ制服。
胸元のリボンと肩掛けの縁の色はグリーン。私も本来なら付けていたはずの新二年生の学年色だった。
よく見ると、見覚えがあった。あれは確か…そう、天野先生の持っていた写真の女の子だ。
確か…、
「…天野…美汐さん…?」
天野先生の娘さん…。
「…え?」
美汐さんは、一瞬驚いたような、とまどいの表情を表して私と視線を合わせるが、素早く感情を押さえ込み、再び祐一さんと名雪さんに静かに尋ねた。
「…あの子を…」
一瞬の沈黙。
そして、彼女の言葉が時間の狭間を貫く。
「…沢渡真琴をご存じなのですか…」
…それが写真の女の子、『美汐』さんとの最初の出会いだった…
(4)まこと
ちりん…ちりん…
妹について歩く狐は、足音の代わりに鈴の音を鳴らす。
妹が立ち止まるとまた、鈴の音を鳴らしながらじゃれつく。
そうして二人と一匹がたどり着いた場所。そこは妖狐が住む伝説の物見の丘だった。
見渡せば街が一望できる静かな場所。
人気のない場所だ。
そこに先客がいた。男の子。このあたりではあまり見かけない子だった。
『あっ、まこと!』
男の子は妹の名前を呼んだ。
『なんで私の名前知ってるのよ!』
妹は驚き、それを隠すために圧噛むようにいう。
『違うよ、こいつの名前だ』男の子は、仔狐をさしてそう言った。
ちりーん…
そう呼ばれた仔狐は喜び勇んで彼の方に走っていった。
『あっ…』
自分に懐いていると思っていたものに裏切られたような驚きと悲しみを混ぜ合わせた顔で仔狐を視線で追う。仔狐が男の子の元についたところで妹がいった。
『なによ!まぎらわしい名前付けるんじゃないわよ!それに、この子は真琴のよ!』
妹は男の子にじゃれつく狐をむしり取ろうと駆け寄る。
…がそう言うが、男の子は仔狐ごとひょいと除けてしまった。
『いったぁ…』
勢い余って草むらに突っ込んだ。
『真琴がまことの…お前こそまぎらわしいぞ。じゃろにとうしょしてやるからな』
間違いなく妹より、男の子の方が上手だった。
『いったわねぇ』
妹は腕まくりをして臨戦態勢に入る。たしかに、妹はそこら辺の同年代の男の子より強いが、やや、年上に見えるこの男の子と勝負した場合分が悪すぎた。なにか起こってからでは流石に不味いと思った私は、真琴を止めに入った。
『真琴!』
私は、妹を止めようと怒る。
『邪魔しないでよ。お姉ちゃん!』
妹はそれでもまだやる気でいる。
妹は男の子にかかっていく。
ひょい!男の子は、妹のことを軽く受け流す。
そんなことを数回繰り返した後、
『やるわね、あんた。名前なんていうのよ』
『普通は、きいた方からいうもんだろ』
『なによ、女の子に先に言わせる気?』
『じょそうかと思った』
『そんなわけないでしょ!』
いいように遊ばれている。
『まあいいか。』
男の子はそう言って
『おれは、あいざわゆういちだ。おまえは?』
『え?』
意外とあっさり、自己紹介されたので拍子抜けしたらしい。
『まことは…さわたりまことよ!しっかり憶えときなさいよ』
ばつが悪そうに啖呵を切る妹。
『さわたりまこと…』
なにか考え込む仕草をした。
『なによもんくある』
『もんくはないけど…、ぐうぜんてあるもんなんだなって…』
あいざわさんはそう一言いっただけだった。
『なによ…』
『同姓同名の方をしっているんですね』
『“どうせいどうめい”って?』
と妹が言う。
『名前がおんなじってこと』
…あいざわさんは
『うん。…っておまえは?』
『さわたりみしお。真琴の…』
そのあとは私の言葉を制した妹が
『おねえちゃんよ』
と続けた。
それから、私たちは三人は夕方まで一緒に遊んだ。
もちろん仔狐の“まこと”も一緒に…。
柔らかな短い夏の終わりの夕日は、暮れかかる空の蒼と混ざり合い雲を赤紫に染めていく。
赤から藍色に変わる空の色に融けるように夕闇に包まれる逢魔が時。
『それじゃまた、あしたな』
あいざわさんがそう言った。
『そうですね、』
『あしたは、かくごしていなさいよ』
真琴は“まこと”を胸に抱き微笑みを返しながら言った。
…懐かしい夢だった
(5)日溜まり
…その日の放課後。
新学級の発表と始業式。そして、簡単なガイダンスのみで今日の日程は一応の終了だった。
HR終了後、祐一さんとの待ち合わせ場所の正門に行こうとすると、担任の先生に呼び止められた。一緒に職員室まで行くと、健康状態について訊ねられたが、今の状態を話すと、「でも、あんまり無理はしないようにね」とだけ優しく励まされた。
職員室の外には祐一さんが退屈そうに待っていた。
「栞、どうしたんだ新学期そうそう…」
と、ちょっと的外れな心配の言葉をかけてきた。
「私は、…先生と病気のことでちょっと…祐一さんこそどうしたんですか?」
「おれは進路指導調査のプリントを運ばされてた。…そこの準備室までな」
そう言いながら廊下の先の曲がり角を指した。
「丁度、栞が職員室に入っていくのが見えたから…待ってた。もう、待ち合わせ時間過ぎてたからな」
「え!?」
退院祝いにお姉ちゃんからもらった腕時計を覗き込むと、待ち合わせ時間から30以上経過している時刻が目に飛び込んできた。
「…二人とも遅刻だな」
ばつが悪そうに祐一さんが笑った。笑顔がとても穏やかだった。
「そう…ですね。でも平気です。時間だけは沢山ありますから」
「…やめとけ、栞が言うと洒落になってないから。なっ!」
そう言って、私の頭を軽くポンポンとふれる。
「…意地悪ですよ」
「そうか?」
私は、祐一さんの顔を見上げる。
そこには、いつも通りの祐一さんの笑顔があった。
「とりあえず、どうする?」
時計は、お昼にはまだ少し早かった。商店街でお昼御飯にするには、やや時間が中途半端だし、一度家に帰っていたら、それこそ時間の無駄だろうと思う。
とりあえず、歩き出して見るのもいいかも知れない。
時間が限りあるものだって言うことを、身をもって経験している。何しろ、本当ならば、今ここに、私がいるはずなど無いのだから。
「…そうですねえ、とりあえず学校から出ませんか」
「まっ、そうだな」
祐一さんも納得して歩き始める。
昨日見たドラマの話。好きな漫画の話。…他愛のない日常の会話。
そんな話をしながら昇降口まで来たときだった。
見覚えがある女の子だった。
「あれ、今朝の…」
ウェーブが掛かったショートヘアの少女が、私たちの方を見つめていた。
『天野美汐』さん。
「栞の友達か?」
「違いますよ。でも、知っています」
物静かに見つめる何か思い詰めたような視線。
「…今朝、会ったよな」
祐一さんは天野美汐さんにそう問いかけた。
「…天野…だっけ」
どうしてそれを…というような視線。
「ああ、…栞が朝言ってたの思い出したんだよ」
「…栞さんですか?」
天野美汐さんは聞き返してきた。
「ごめん、栞って言うのはこいつの事」
「あっ、私、美坂栞って言います」
「おれは、三年の相沢祐一」
「えっ?!」
天野美汐さんは一瞬驚いたような顔をしたがすぐに元の冷静さを取り戻した。
祐一さんと私は、慌てて自己紹介をした。
「…天野美汐です」
天野美汐さんはゆっくりと丁寧にお辞儀をする。
祐一さんと私も彼女につられてお辞儀する。
美汐さんは一息ついて…
「ところでどうして私の名前を知っているんですか」
「美汐さんのお父さんてお医者さんですよね、お父さんから教えていただきました」
私は、そう答えた。
「父を…ご存知なのですか」
「はい、とても優しい先生ですよね」
美汐さんは少しだけ寂しげな笑みを浮かべて
「父はとても優しい人です。そして、不器用なほど隠し事が下手な人」
隠し事…その言葉に私は引っかかるものを感じた。
そう思う私を余所に、彼女は祐一さんの方に向かい、
「相沢さん、真琴を…沢渡真琴を知っているんですね」
と確信めいた瞳で静かに問いただした。
「あ…あぁ」
祐一さんは躊躇いながらそう答えた。
「うち…っていっても、従姉妹の家なんだけど…そこに、一時期居候してたんだよ」
居候か…。秋子さんならあり得る話だった。あの人なら、二つ返事で了承するだろう。
たとえ、どこかの國から亡命してきた元大統領であっても態度は変わらないと思う。
「記憶喪失だっていっていたな。本当かどうかはらないけどな」
「…そうですか。だとしたら本当に記憶喪失だったんです」
美汐さんは、妙に納得した様子でいった。
「疑わないんだな…。おれは最初疑ってたんだけどな」
「確信があります」
美汐さんは答えてから
「相沢さんと美坂さんは、普通では起こらないことでも信じることが出来ますか」
…と続けた。
「ああ、信じるよ」
深く頷く祐一さん。
「今のおれなら信じることが出来るよ。例えば、それが困難な奇跡であったとしてもね」
「…祐一さん」
祐一さんの言葉を重く受け取った。『起こりえない奇跡』そもそも、それこそが今の私自身だったから。
「…そうですか。それなら…」
美汐さんはそこで言葉をいったん区切って呼吸を整える。そして…
「それなら、あの子が一夜の幻だとしても信じますか…」
(6)夕焼け
夏休みは長いようで短い。
そして、夏の終わりはいつでも、別れを意味する呪文となって仲良しの友達を引き裂いていくのだ。
ゆういちさんと私たちは昔からの幼なじみのように遊んだ。
でも、いつでも楽しい夢の終わりは突然やってくる。
『…おれ、あしたかえるんだ』
その言葉は全ての終わりを意味する。
とても言い辛そうにいう。
『どうしてよ!』
駄々をこねる妹。
『だって、学校がはじまるだろ』
物見の丘に夕日がさしかかる頃…
『こっちのがっこうにてんこうしちゃえばいいじゃない!』
逆光の中、妹の涙がこぼれ落ちる。
『いとこんちにめいわくだろ…』
ゆういちさんは涙を必死にこらえていた。男の子は涙を見せるわけには行かなかったから…
『だったら、まことのうちにくればいいのよ…』
『…まこと』
私は真琴を諫めた。
『冬にはまたくるからさ…、だから…またここで…な』
幼かった日々の私たちにとって冬までの時間は永すぎた。…そう永遠にも感じるほど。
『やくそくだからね。やぶったらゆるさないから…』
そんな確証のない約束にしか、悲しさを紛らわすすべを知らなかったあの頃…
八年前の儚い夏の幻影だった…
(7)追想
水瀬家。
祐一さんと私は、美汐さんと別れてから向かった先は、祐一さんの住んでいる秋子さんの家。
「お昼でもいかがですか」
秋子さんはいつもの調子でお昼に誘ってくれる。
丁度帰ってきた名雪さんも含めて四人で、一寸遅めの昼食を頂く。
昼食を終えた後、秋子さんと名雪さんと私で後片づけを済ませると、名雪さんは「部活があるから、栞ちゃんゆっくりしていってね」と言う言葉を残して、また学校へと出かけていってしまった。
秋子さんは秋子さんで、洗濯物の取り込みに行ってしまったので、リビングには二人取りが残された状態になってしまう。
「…さてどうするかな」
祐一さんは近くにあったテレビ雑誌とテレビのリモコンを手にする。
祐一さんはテレビを付けると適当に選曲した。
そして、ふと考え込んで私の方を見ると
「…『物見の丘』『妖狐』…、なんか引っかかるんだよな」
テレビ受信機に映し出されるのは、何度も再放送されたことのある人気ドラマ。
そう言えば、入院中も楽しみに視ていたドラマだった。
でも、ドラマの内容など頭に入らない。
頭に木霊するのは、美汐さんが別れ際に言った言葉。
『あなたもきっと、物見の丘で妖狐と出会っています。妖狐は人の心を惑わすと言われています。そして、今の真琴は…妖狐の見せる儚い夢でしかないのですよ』
「物見の丘の妖狐伝説ですか…そう言えば聞いたことがありますよ、そのお話」
「…知っているのか?」
何処か驚いた様子だった…
「物見の丘の妖狐が人の心を惑わすのは、決して悪意があるからじゃないそうです」
「そうなのか?」
「はい。むしろ無邪気で無意識な善意から惑わすって…」
私がそう説明すると
「偉く詳しいな」と祐一さんは感心してくれた。
「お姉ちゃんの受け売りなんですけどね…。入院中の私に、この街の話をたくさん聞かせてくれましたから」
「…香里らしいな」
祐一さんは納得したように頷く。
「お姉ちゃんも、お母さんからの受け売りだったのかも知れませんけど…嬉しかったんです。そう言うお話をしてくれるお姉ちゃんと一緒にいるのが…」
「多分、香里も同じだったと思うぞ。だからこそ、堪えられなかったんだろうな。医者から栞の病状を聴いて…」
「…、今でこそ笑い話なんですけどね。でも…」
私はわざと勿体ぶって思わせぶりに話を止める。
「でもなんだ…気になるな」
「ひょっとしたら、私の正体も実は妖狐かも知れないですよ」
「そりゃないだろ。なにしろ、病院に病原体媒体は持ち込めないからな」
そう言うとにやりと笑った。
「酷いです…。そんな事言う人きらいですよ」
そう言って、わざと膨れて見せた。
…ちりりーん、ちりーん
鈴の音がする。
「あらあら、狐のお話ですか…」
鈴の音と共に戻ってきた秋子さん。
「秋子さんもなにかご存知なんですか?」
私がそう訊ねると
「…そうですねぇ」
いつものように頬に手を当てて少し考えるそぶりをした後、
「昔、うちにも仔狐がいたんですよ。…そう八年ぐらい前の夏」
瞼を閉じて過ぎ去った日々を振り返る秋子さん。
「買い物に出かけようとすると寄って来るんですよ。…そう、ちょうど…」
…ちりーん…ちりーん…
「これと同じような鈴をお財布に付けていたんですよ」
瞼を開いてキーホルダーを私に差し出した。小さな鈴が二つリボンにくくりつけてある。
「この音が好きだったんですね…。お財布が揺れる度になる鈴の音に惹かれてに寄って来るんです。だから…」
私は、秋子さんにキーホルダー渡されたキーホルダーを眺めていた視線を秋子さんに向ける。
「あの子にあげちゃったんですよ。首輪の代わりにこう…」
そういいながら空で結びつける動作をする。
「え…。あれって秋子さんの仕業だったんですか」
祐一さんが苦笑しながら言う。
「弱ったこぎつねが元気になった頃気がついたら鈴が首輪代わりについていたから、誰が付けたんだろうって…名雪にも話してなかったはずなのに…」
「ふふふ、いけませんでしたか」
秋子さんがそう言うと、
「いえ、そうじゃなくって…」
はぁー…と溜息をつく祐一さん。
「知っていたならそう言ってくれればいいじゃないですか…意地悪がわるいですね」
「だって、内緒だったんですよね。だったら、内緒なんです。せっかく、大事にしている秘密を私が暴くわけにはいきませんから。祐一さんも名雪も、いつでも必要になれば話してくれると思っていますから。そして、栞ちゃんもですよ。でも…」
秋子さんはいつも通りに微笑む
「…もしかしたら、あの子なのかもしれませんね」
(8)約束
クリスマスの晩のことだった。
電話があった。あの男の子、あいざわゆういちさんからだった。
それまで、四、五回、こちらから妹が電話をかけていたのは憶えているが、ゆういちさんから電話がかかってくるのは初めてのことだった。
『あした、新幹線でいくからな。あさってあそこでまってるぞ約束やぶるなよ』
受話器からこぼれる声。妹は、相変わらず憎まれ口を叩きながら喜んでいた。
しかし、その約束は守られることがなかった…
なぜなら…
(9)鈴の音
ちりーん…ちりーん…
「鈴の音」
…まただ。今朝から三度目の鈴の音。
…ちりりーん
秋子さんの家からの帰り道、私はまた鈴の音を聴いた。
鈴の音は心を打つ。
私は、鈴の音を追いつつ街角を進む。
狭い路地、メインストリート…遊歩道…。
鈴の音は誘う。私をどこかへ導くように…
不思議と、私以外には聞こえていないらしく、少なくとも、街は普段通りの日常を演じているようだった。
…そして
小高い丘陵地の斜面を登りきるとそこから街が一望できる開けた場所に出る。
「物見…の丘」
物見の丘から眺める眺望は夕闇が支配していた。
逢魔が時、そんな言葉が相応しかった。
流れる風は寒さと共に静けさを誘う。街の燈(ひ)は、ようやく夜を彩り始める時間を自覚したように、夕闇に人々の営みの星座を映し出す。
何も無ければ、広がりの中の孤独な自分に思わず酔いしれてしまったと思う。
でも、そこは私一人の場所ではなかった。
雪に覆われた草むらに佇む少女。静寂の中、彼女は何か儚げだった。
「みしお…さん」
静寂を奪う私の呼びかけに美汐さんが振り向いた。
「美坂…さん?」
戸惑い…躊躇い…今思うと、いろいろな感情が混じり合っていたんだと思う。
「栞でいいですよ」
私は、美汐さんにそう言った。
「栞…さん。…妹は、真琴は、何故今頃になって戻ってきたのでしょう…」
観念めいた響きがした。悲しげだった。
「…美汐さん」
私は、言葉を続けられなかった。
「この丘には想い出があります」
美汐さんは、話し始めた。
この丘であった、幼い頃の遠い記憶を…
妹さんのこと、昔飼っていた仔狐のこと、幼い日夏の日に遊んだ男の子のこと…
夏の約束のこと、そして、妹さんが約束の日に自動車事故で亡くなったこと…
その後両親が離婚して、父方の姓になったこと…
「…そう言うことだったのか」
懐中電灯の灯す楕円の光が二人を照らし出した。
はぁ、はぁ、白い息を弾ませながら登ってきたのは祐一さんだった。
「どうしたんですか、祐一さん…」
「香里が電話をかけてきた」
息を整えてから、
「もう、あいつにあんまり心配かけるなよ…」
そう言うと、私の額にデコピンをする。
「…痛いですよ」
「お仕置きだ。遅くなるなら…、家に連絡くらい入れておけ」
確かにもっともな話だ。すると、
「ふふふ…、昔と変わりません」
美汐さんがそう言って笑った。
「さわたりみしお…だな」
祐一さんは懐かしそうに美汐さんをそう呼んだ。
「今は、天野美汐です」
寂しげにそう言った。
「…真琴は」
「…分かってる」
…ちりーん
祐一さんと美汐さんの視線の先。背の高い草むらの中から鈴の音がする。
鈴の音が途切れたとき、今朝方見かけた女の子が立っていた。
何時からいたのか、いつの間にか目の前に立っていた。
「…お姉ちゃん…ゆういち…」
「…真琴」
「…遅刻して悪かったな」
祐一さんも美汐さんも、零れ落ちそうな涙を越えるので精一杯だった。
「違うよ…遅れたのは真琴の方なの…」
「そんなことはもうどうでもいいさ。それより…」
祐一さんは、美汐さんの背中を押して真琴さんのもとへと即しす。勢い余って真琴さんにぶつかる。
「…まこと」
美汐さんは真琴さんを抱きしめる。
「お姉ちゃん、真琴はお別れを言いに来たの…、お姉ちゃんと祐一に。でも…」
美汐さんも気付いていたらしい。真琴さんがもうそんなに永い時間いられないことを…
『儚い夢』
だからこそ、そんな風に言ったのだろう。
号泣する真琴さんを自らの悲しみを抑えながら抱きしめる美汐さんは、何故かお姉ちゃんに見えた。私もお姉ちゃんに、こんな悲しみを背負わせていたのかと思うと自然と目頭から熱いものがわき出していた。
「栞」
「何でもないですよ」
祐一さんは、私を優しく抱きとめる。私のこぼれ落ちる雫を、その胸で受け止めるために…。何もかもを受け入れ理解した微笑みを浮かべて…
微かな声が聞こえる。
「…ありがとう…」
真琴さんの声だった。
美汐さんのコートの胸を濡らした涙だけが、真琴さんが今までそこに存在した証明ただ一つの証拠だった。
「…真琴」
今まで真琴さんを抱きしめていた両腕は、今は虚空を抱くように…。そしてそのまま、ただ呆然と立ちつくす。
その腕は力無く垂れ下がり、そして譫言のように…
「あの子達は、どうして今頃になって妹の夢を見させたのでしょうか…」
白い粉雪が、悲しみを覆い尽くすようにそらから舞い降りてくる。
「…あの子達にとっても酷なことだというのに」
美汐さんの目が潤んでいた。そして、今まで堪えていた熱い雫が、一粒二粒…そして止めどなく流れてきた。
「そんな夢なら悲しいだけのはずなのに」
…呟き。
「夢を望んだのは美汐さん自身です」
思わず口からでた私の言葉。
「そして、夢から覚めたかったのもあなた自身です」
その時の私は、自分でも不思議だと思うほど落ち着いていた。
「…どうして、そんなことが言えるんですか」
震えるような声で静かな悲しみと怒りをぶつけてくる。
「それは、私自身がそうだったからですよ」
「…?」
そして、疑問符の答え。
「栞が見ていた夢でもあったんからだよ…」
…祐一さん。
「天野…、栞はな、今でこそ死にそうにないくらい元気だけどな…だけど…」
「…酷いです」
拗ねながら、何処か心の内で微笑んでいる私がいる。
「自分の治らないと言われた病と闘いながらも、いつも普通の女の子でいられるよう願っていた。そんな夢を見て過ごしていたんだ」
「夢の終わりは約束通りの笑顔だったんだ。だからこそ、夢を終わらせて今の栞が此処にいる」
星空。夜の帳に輝く彼方の静かなる声。
祐一さんは星空を見上げる。
「悲しみは、忘れるためにあるんじゃない、受け入れるためにある。そして…夢は、悲しむためにあるんじゃない。目覚めるためにあるんだ…それを伝えるために、真琴は帰って来たんじゃないかな」
そして、零れそうになる涙の雫を星空に託した。
「…そう、そうかもしれません」
美汐さんはいった。
「…本気…だからこそ奇跡は起きたんですよ」
私はそう言って、ハンカチを手渡した。
「あっこれ使ってください」
「栞さんありがとうごさいます」
美汐さんは、そのハンカチで涙を拭った。
「何だ栞、ハンカチ持っていたのか…」
祐一さんがひそひそ声で言うので
「男は黙って女の子に胸をかすものなんですよ」
と笑っていった。
「相沢さん。私も、栞さんの意見に賛成です」
美汐さんも笑ってそう言った。
「あっ、栞…」
お姉ちゃんだった。
「栞ちゃぁーん、祐一ぃー!香里、お母さんの言った通りだったよ〜」
名雪さんも一緒だった。
二人とも息を弾ませ懐中電灯の光を白い息で曇らせていた。
…白い妖精は、約束の地に降り積もるように後から後から舞い降りて来る。
…ちりりーん…
そして、最後に微かに聞こえた名残惜しそうな鈴の音は、降りしきる静寂に吸収されていった…
(10)笑顔
お彼岸はとうに過ぎていた。でも、洗い清められた墓石は雫の滴りが午後の日光に反射する。
「立ち上る線香の煙に肉まんは…アンバランスだよな、どう見ても」
祐一さんは苦笑して合掌する。
お供えの花はまだ瑞々しい春の花に差し替えられ、秋子さんを私と美汐さんが手伝った手作りの肉まんが備えられている。
「妹は、肉まんが大好きだったんです。…あの日も…、あいつ寒がりだろうから、肉まん買っていってあげるんだって、妹は…そう言っていました。」
美汐さんはそう言うと静かに手を合わせる。
「それで、肉まんか…そう言えば昔から好きだったな…あいつ。うちでもやたらと肉まん喰ってたしな」
拝み終えた祐一さんが呟いた。
「栞のアイスと一緒だ」
「そんなこという人嫌いですよ」
背後からの声が
「ピザまんとカレーまんは邪道よ!っていうのが口癖でしたよ」
そう呟く…
「あっ天野先生」「…お父さん」
美汐さんと私は、同時にそう言った。
「祥月命日ではないですけど、今日は真琴の命日ですからね。」
天野先生は、いつも見慣れた先生ではないように思えた。白衣ではなく、紺色の落ち着いたスーツ姿で現れたからだろう。
「お父さん、土曜なのに病院はどうしたんですか…」
「サボりです」美汐さんの問いに真顔で冗談。
「そうなんですか?」
私は、心配になって訊ねた。
「真に受けないで下さい、栞さん」
美汐さんが言った。
「…お父さんも栞さんからかうのはやめて…」
ばつが悪そうに苦笑いする先生。
先生をたしなめるために膨れているが、なんだか楽しそうな美汐さん。
何処かで見たことがある笑顔…何処だったろうか…
「…そうだ…」
「どうしたんだ、栞」
祐一さんはいきなりの事に驚いて私に問いかけた。
「…思い出したんですよ、美汐さんの今の笑顔を何処で見たのか…」
「え?」今度は美汐さん…
「何処で何ですか?」先生も…
「天野先生、あのときの写真もう一度見せていただけますか?」
「…いいですが…どうしてですか?」
先生は背広の内ポケットからこの間の手帳を取り出して一枚の写真を手渡した。
…美汐さんの写っている写真。
「そうじゃなくって…もう一枚の…」
先生は渋々なそぶりで、そっともう一枚の写真を手渡してくれた。
「ほら!」
写真を覗き込む一同。
「あ!」
最初の声は先生。そして祐一さん。
…美汐さんは涙を一滴。
「…私こんな風に笑ってましたか?」
笑顔の中の雫は春の日差しに反射して一筋の流れを形作る。
「はい、美汐さん。やっぱり笑顔が一番です」
「そうですね」
美汐さんは、涙を払って今までで一番の微笑みでそう言った。
「…そうですね、その方が真琴も喜ぶとおもいますよ」
天野先生もにっこりと笑った。
美汐さんと天野先生。
…悲しみを受け入れて、そして、また歩きだそうとしている父と娘がそこにいた。
「…せっかくの肉まんが冷てしまいます」
美汐さんは気を取り直してそう言うと、まだすこし白い湯気が上がっている保温式の弁当箱から皆に振る舞う。
「おばさんくさいな」
「落ち着いていると言ってください」
美汐さんが反論すると
「天野は昔からおばさん臭い。」
「そんな事いう人嫌いです」
そう言って美汐さんは笑みを浮かべた。
「あ!栞の真似したな」
「違います。ね、栞さん」
「はい。美汐さんの言うとおりですよ、祐一さん。だから…そんな事言う人嫌いです」
(11)物見の丘
…ちりりーん…ちりーん…
鈴の音が聞こえる
遠くに木霊する微かな鈴の音が聞こえた…
『…ありがとうお姉ちゃん』
『そして…』
『…さようなら』
妹がそんな声がきこえた様な気がする。
…ちりりーん…りりーん…りーん………
微かに木霊する鈴の音は次第にかすれてきこえなくなる。
こうして、物見の丘に一人で立つこともいづれなくなるだろう…。
(12)春の日差しの中で
ある日の朝。
「あっ美汐さん、おはよう」「よう天野!」
祐一さんと私は、先を歩く仲良しの美汐さんに朝の挨拶をする。
朝の通学路ですっかりお馴染みになった日常の風景。
「祐一ぃー、置いていくなんてずるいんだよう」
猛スピードで駈けてくるのは、名雪さん。
「…栞、連れないわね」
ウエーブの髪を風になびかせて余裕ありげにお姉ちゃんが言う。
「よっ香里!」
「おはよう、相沢君」
祐一さんに挨拶がてら私に不敵な笑み。
「栞も私より、相沢君の方がいいみたいね」
「そっ、そんなことないよう…」
「…いいのよ、別に悪い訳じゃないんだから…ただ、少し嫉妬してるだけよ」
弁解する私に優しくそう言った。
「うにゅー祐一酷いんだよぅ…きいてよー、香里ぃ、栞ちゃん、美汐ちゃん…」
ようやく追いついた名雪さんが、息を弾ませながら言う。
「そんなことないんだよー、あのジャムが出てきたらとっとと行っちゃうんだよー」
「当たり前だ!」
「…はあぁ〜。まだアレあるのね…」
お姉ちゃんは心底嫌そうに溜息を一つついた。
美汐さんは不思議そうに問いかける。
「あれってなんですか…」
「美汐さん、アレって言うのは…ムグっ」
祐一さんが私の口を無理矢理押さえ込む。
「…気にするな、いずれ分かる」
「ムグぅムグ…」
…少し息苦しかった。
「ひどいんだよぅ…」
「ええい!名雪も往生際が悪い!!」
そして、祐一さんがようやく解放してくれると…
「そんな事する人嫌いです」といつものように拗ねて見せた。
少し、笑っているのは、もちろん本気で怒っている訳じゃないけど…
「…学校遅刻しますよ」
美汐さんはくすくす笑いながらも、冷静に時間を告げる。
「そうね…ラブコメカップルと、我が儘娘はほっといていこうかしら、天野さん」
「…そうしましょう」
と歩きは出す、美汐さんとお姉ちゃん。
「お姉ちゃんひどいです」
「うー…香里まで…」
「追い一寸まってくれ…遅刻だけは御免だからな、ほら、いくぞ栞!」
走り出す空気。風はようやく春風に浮かれ出していた。
私達は、この日常の中で生きていく
…ちりーん …… ちりーん …
夢の終わり
そして…
新たな日常の始まりを教えてくれる鈴の音。
優しい鈴の音は春風に乗って
心の奥に微かに響く…
風に乗せて
いつまでも… いつまでも…
〜劇終〜