11/17
眠っていた様だ。
随分と長い間バスに揺らされている。具体的な時間は判らなかったし、判る必要も無いと思った。もとより目的を決めていない旅だ。気が向いた場所で降りるとしよう。要は何処でも良いのだから。
そんな事を思いながらチラリとバスのダイヤグラムを視界に入れる。
次の瞬間、彼-国崎往人-はバスを停止させた。
「しまった・・・」
思わず悪態をつく。
金が底をついていた。
バスから降りると冷たい空気が身に沁みた。
「寒い・・・」
月日は11月の半ば頃。立派な秋だった。いや、冬か?彼には堪える季節である。無論の事、旅をしている以上、最低限の防寒具は用意してある。それでも寒さには結構弱い。
「腹減った・・・」
空腹にも弱い。しかも金が無い。ホームレス並だった。だが旅を続けてきた彼にはどうすれば良いのかが判っている。
「先ずは食糧の確保だな。寝床はそれからでいい。」
自分自身に確認する様に口に出す。そして往人のその日の目標は決まった。
しばらく散策してみる。田舎町のようだった。都会よりもよっぽど都合が良い。日単位の働き口はまだ、見つけ易いからだ。後は行動あるのみだった。
しかし、都会よりも楽と言っても簡単には見つからないのが現状である。
一日中歩き回ったが無駄に終わってしまった。食糧も得られず。しかし寝床は確保できた。
勿論、野宿だが。
結局、その日はそれだけで終わってしまった・・・
往人は長い旅の間ずっとこうやって生活してきたのでは無い。こういった旅の仕方を見つけたのは一年近く前だった。一年前まで往人は、旅を自分の生業を持っていた。人形劇がそれである。往人は法術と呼ばれる不思議な力を持っている。それで人形を手も触れずに動かす事ができるのだ。
早い話、見世物で食べていた。
この力は往人の一族に代々受け継がれていた力だ。彼の母親もこの力を生業としていた。往人にこの力を教えてくれたのは母親だった。
旅を始めたばかりの頃は、この力で難なく食っていけたのだが、年を重ねる毎にそれが難しくなってきていた。
そして一年前の夏。
往人はこの力の存在する意味を理解する事になる。
旅の途中、流れ着いた町で彼は‘翼をもった’少女、神尾観鈴に出会った。
無論の事、逢った瞬間に判った訳ではない。
彼女は初対面にも関わらず、往人に懐いていた。彼は最初の頃はそれを煙たがっていたがだんだんと、彼女のそばに居たい、と思うようになってきた。
同時に、観鈴が‘翼をもった’少女だという事も判りはじめた。
「彼女のそばに居たい。」
しかし、それは叶わぬ願いだった。伝説にある様に、二人の心が近づく程、観鈴は苦しんでいった。そして往人もまた苦しんでいった・・
結局、往人は観鈴のもとを去る事にする。観鈴の命を救う為に。たとえ彼女が孤独に戻ろうとも・・・
だが往人には判っていた。それは観鈴を救った、と言えない事を。自分には‘翼を持った少女’を救う事は出来なかったという事を。
その事を認識した時。往人の中から法術の力は消えていた。それ以来、彼は今までの生業を捨てて旅を続けている。現在の様な方法に替えて。
11/18
何やら声が聞こえる・・・
「こんな所で寝てると風邪ひいちゃいますよ〜」
何処かで聞いたような台詞だな・・・
「寒くないですか〜?」
・・・確かに寒い・・・
「もしも〜し」
・・・起きるか・・・
「あ、おはようございます」
起きた先には女の顔があった。年の頃、17、18位だろうか。背中の半ばまで髪を伸ばし、この土地の学校と思しき制服を着ている。
「おはよう・・・誰?」
挨拶を返してから当然の疑問を口にする。
「あなたこそ」
そういえば昨日この町に着いたばかりだった。当然の疑問を返されてしまった。
「旅人。」
特に何を誤魔化す必要も無い。普通に答えを返す。
「あれ?浮浪者じゃなかったんですか?」
「そりゃ傍から観れば浮浪者っぽいが、断じて違う」
断じて。
「おーい!名雪ー!遅れるぞー!!」
その時、遠くから声がした。その方向を見ると、目の前の女と同じ年ほどの男が見えた。
「ごめーん!今行くー!あ、それじゃ私、学校がありますんで」
「名雪」という名前らしい。名雪はその男の方へ駆けていった。
______________________
「さっきの男、誰?」
俺は至極当たり前の質問をする。結構長い間(と言っても一年位か?)この町に住んでいるが、見た事無い顔だったからだ。
「あれ?やっぱり祐一も知らない?」
「知らん」
「私も初めて見た顔だったんだよ。凄い所で寝てたから心配になっちゃって」
「寝てたのか!?」
「うん。寒そうだったよ」
「そりゃあ寒いだろ・・・」
はっきり言って、この町は寒すぎだ。この寒さだけは慣れる気がしない。まだ十一月だから良いものも・・・それでもあんなトコで寝たら、俺なら死ぬな。
「もしかして浮浪者か?そいつ」
「ううん。旅人だ、って。断じて浮浪者じゃないらしいよ」
「旅人、ねぇ・・・」
まだまだ世の中には変わった人がいたもんだ。旅人ってのはちょっとカッコいいが。
___________________
グ〜
腹の虫が救難信号を発している。そういえば昨日は殆ど何も食っていない。そんな事を思い出すと余計に腹が鳴った。
「ぐは・・・」
目を覚ましたは良いがこれはマズい。しかし金も食糧も底を付いている。更に寒い。町の中だというのに遭難した気分だ。何故こんな目に遭ってるんだ、俺は・・・バスの中で寝たからか?そんな気がする・・・
ごろん、と仰向けになり空を眺める。なんか黒かった。
「・・・雨、降るのか・・・?」
踏んだり蹴ったりだ。本格的にやばいんじゃないのか?この状況は。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない・・・」
何処かで聞いたような声を掛けられる。お陰で思わず返事をしてしまった。その方向を見ると、女性が立っていた。何処かで見たような顔立ちだった。しかしそれよりも気になる事があった。その人がもっている買い物袋である。その時の俺は、それを物凄い眼で睨んでいただろう。
「腹が減って動けん。昨日から何も食っていない。何か食い物をくれると助かる」
「あらあら。けど生憎、今食べられる物は持っていないの。」
「そうか・・・」
「なんなら家で召し上がっていく?」
「マジか」
その時の俺の眼は間違いなく光っていた。
「恩に着る」
そうと決まれば早いに越した事はない。自分の体に鞭打って荷物を纏める。どうせ盗る物なぞないがそれでも盗られるのは困る。
「ところで貴方・・・」
「何だ?」
「浮浪者?」
「断じて違う」
_________________
放課後。勉強が苦手な祐一にとっては正に至福の時である。今日は名雪は部活らしいので一人で帰る事にした。特に寄りたい所も無いので・・・
いや、一ヶ所だけ。名雪が今朝遇った、男のいた場所だ。
名雪の話を聞いた後、何故だか判らないが興味が湧いたのである。場所は憶えているので行ってみる事にした。
・・・
「居ないな・・・」
それもそうか、と思う。いくらなんでも昼間中、こんな寒い場所に居る人間は居ないだろう。いたらそれこそ浮浪者だ。本当に浮浪者じゃないとは言い切れないけど。
いなけりゃいないで構わない。さっさと家に戻ろう。
およそ一年程前。相沢祐一はこの町に水瀬家を頼って引っ越してきた。親は後から来る、とか言っていたのだが、結局まだ来ない。その間、祐一はずっと水瀬家の居候である。尤も、祐一自信はこの家が気に入っていた。たまに自分が居候だという事を忘れる程に。
「ただいま・・ってあれ?」
玄関に入るなり、奇妙なモノが有った。結構大きめの男物の靴だ。この家には秋子さんと名雪と自分しか住んでいない。それなのに自分以外の男物の靴がある。もしかして親父か?
「お帰りなさい」
秋子さんが顔を出した。
「あ、秋子さん。もしかしてお客さんですか?」
「ええ、そんなところよ」
「・・・もしかして親父?」
「違うわよ。買い物の帰りに遇ったんだけど、お腹が空いた、って言ってたから」
「はは・・・」
苦笑を漏らす。困った人は放って置けない性格なのだろう。そういう性格は長所でもあるが短所でもある。もうちょっと用心深くするべきなんじゃないだろうか?
「今はソファーで寝てますよ」
背中に秋子さんの声を受けて、祐一は居間に向かった。
「あれ?この人は・・・」
朝方見た男がソファーの上で鼾をかいていた。
--お腹が空いた、って言うから--
秋子さんの台詞を思い出す。やっぱり浮浪者なんじゃないのか?
名雪が帰ってきて、夕食の時間になってもその男は寝ていた。随分と寝る・・・
名雪も家でこの男が寝ているのを見たときは、流石にビックリしたようだった。
夕食の時、つまり男が眠っている間に、秋子さんからこの男の事を多少ながら聞いた。名前は国崎往人。年齢は20かそこららしい。実際に旅をしており、この町もその旅の途中に立ち寄ったとの事。しかしその立ち寄った理由が、旅費が底を付いた、だとは・・・随分と間抜けな話だ。
「それで、往人、さんか。往人さんはこれからどうするんですかね?」
一応、年上だ。敬称くらいは付けないと失礼というものだろう。
「さあ・・・しばらくこの町でお金を稼ぐって言ってたけど」
やっぱり旅人も楽じゃないらしい。野宿してる時点でそう言えるが。
「じゃあそれまで家に泊まってもらったら?」
名雪が物凄い事を提案した。・・・マジか?
「そうね。それでもいいかも」
しかも受け入れてる。・・・マジか?
「良いんですか?そんな見ず知らずの男を」
「だけどもうじき雪が降るよ。今はまだ良いけど雪が降ったら野宿は無理なんじゃない?」
確かに名雪の言う事も尤もなのだが・・・
「もし泥棒とかだったらそうするんだよ」
そういう事だ。
「大丈夫だよ。悪い人に見えないもん。目付きは悪いけど。」
「ふああああ・・・」
ふとソファーの方を見ると往人・・さんが起きていた。
_____________________
目覚めは爽やか。久しぶりに暖かい場所で寝ることができた。食事も摂った。最早生命の危機からは脱しただろう。少々大袈裟だが。
欠伸をしながら体を起こす。
「ふああああ・・・」
ふと前を見ると三人の視線が自分に集まっているのに気付いた。
「おはよう」
世話になったのだ。やはり朝の挨拶くらいはしなければなるまい。
「今、夜ですよ」
男が応える。・・・って・・・夜?
外を見ると暗かった。まだ一日も経っていなかったらしい。
視線を彼等に戻す。が、すぐに食卓に注目してしまった。
グ〜
腹が減っていた。
「往人さん、飯食ったんじゃないのか?」
ふっと男の顔を見る。何処かで・・そうだ。今朝見た男だ。良く見るとその横には「名雪」も居た。
「麺は消化が良すぎるんだ。すまないがもう一度食わせてくれ」
恩を買いまくっている気がする。まあいいだろう。食卓に着くと男が口を開いた。
「あんた、本当に旅人?」
「そうだが」
「浮浪者じゃなくて?」
「断じて違う」
「けど腹減ってるところを助けられるって、浮浪者っぽいじゃないか」
「・・・」
「・・・」
少々の沈黙。
「ところで何で俺の名前を知ってるんだからそっちの名前も教えてくれよ。」
自分だけ知られているのは随分と理不尽な気がした。
「祐一。相沢祐一。祐一でいいぞ」
「相沢?水瀬じゃなくて?」
「ああ。居候だからな」
「俺と同じか」
「・・・」
「・・・」
少々の沈黙再び。
「私はね」
「名雪」が口を開いた。こっちは知っている。
「名雪だろ?水瀬名雪」
先に言ってやった。
「あれ?何で?」
「朝に祐一が言っていた。幾ら俺でもすぐには忘れん」
「ああ、そうなんだ」
そう言う名雪は僅かに嬉しそうだった。まあ自己紹介が省けたからな。
「それで往人さん。これからどうするんだ?また野宿か?」
「いえ、泊まって頂いて結構ですよ」
俺の食事の用意をしていた秋子が戻ってきた。
・・・
何?泊まり?マジか。
「この時期は冷え込みますから。それにもうそろそろ雪が降る頃ですよ」
「では世話になる」
「その前に。あんた泥棒じゃないだろうな」
祐一が凄い事を言ってきた。成る程。そういう手もあるな。・・・じゃない。盗みはダメだ。
「断じて違う」
結局、その日は水瀬家で泊まる事となった。
11/19
ジリリリリリリリリ
目覚ましの音で起こされる。時計を見ると学校までにはまだ余裕があった。朝飯もゆっくりと食べる事ができるだろう。名雪が起きてくれさえすれば。
「おーい、名雪ー」
名雪の部屋をノックしながら呼んでみる。
「おーい」
やっぱり起きないか。ならば強行手段である。部屋に入る。
「起きろ〜!!ってあれ?」
名雪の姿は無かった。まさかもう起きてるのか?!そんなバカな。
食卓に行くと名雪が居た。
「あ、おはようだよ。祐一」
「おはようだが・・・お前一体何が起きた。俺より早く起きるなんて」
「ヒドイよ。私だって早起きくらいするよ」
「むう・・確かにその可能性は否めない事もないが。」
その代わりに往人さんの姿が無かった。名雪の遅起きが伝染ったのか?
結局、往人さんは姿を見せず、俺と名雪は学校へ向かった。空は相変わらず暗かった。
________________
時計を見ると既に10時を回っていた。
リビングに下りて遅めの朝食を食べる。
その後は家にあったアルバイト情報誌を読んでいた。結構な数はあるがこちらの要求と見合うものはそう簡単には見つからない。
しばらくすると、洗濯物を抱えた秋子が戻ってきた。自分の読んでいる情報誌を覗き込んでくる。
「あら?アルバイトするの?」
「まあな。金がなけりゃまともに旅も出来ないからな」
「紹介しましょうか?」
それは有り難いのだが・・・
「どんな仕事だ?それ次第なんだが」
「保育所なんだけど。子供の面倒とか見たりね」
「無理」
「あらそう?残念ね」
昔から子供は苦手だ。
___________________
肌寒い学校からの帰り道。道端に生えた木の葉っぱはとうの昔に落ちきってしまった。いよいよ冬かと思うと気持ちが沈む。
「往人さん、まだ家に居るかなぁ」
住宅地に入る辺りで、隣にいる名雪がそう言った。その言葉には僅かに期待感が含まれていた気がした。長い間、二人だけで暮らしていた名雪にとって家族が増えるのは嬉しい事なのだろう。
「旅人だからな。もう出発するんじゃないのか?」
「うーん、だったらちょっと残念。旅の話とか聞きたかったのにな」
「まあ、もう居ないっていう保障もないしな。いたら聞けばいいだろ」
「そだね」
そんな事を話しているうちに、水瀬家に着いた。玄関をくぐると、大きめの男物の靴。何と判りやすい。
「ただいま」
「おかえり」
いつものやりとりを交わし、リビングに行く。そこでは往人さんがアルバイト情報誌を読んでいた。バイトするって事はしばらくこの町、もとい、この家に居るって事か?
「往人さん、アルバイトするの?」
名雪が話し掛けていた。
「ああ」
「ふーん・・・じゃあしばらくこの家にいるんだね」
「・・・そういう事になっちまうか」
「あ、ここなんかどう?」
言って名雪は情報誌の記事を指した。何の記事かはここからは判らないが。
「百花屋?何の店だ?」
「喫茶店だよ。イチゴサンデーが美味しいんだよ」
「接客か?無理」
「どうして?」
「考えてみろ。俺がエプロン姿で『いらっしゃいませ』だぞ。客がビビる」
想像してみる。
・・・
確かにビビるな。
名雪も同じモノを想像したのか、クスッと笑った。
11/20
昨日は無意味に遅く起きたので、今日は早く起きた。時計を見ると七時頃。祐一達もまだ学校には行っていないだろう。
服を着替えて、廊下に出ると、ばったり名雪と遇った。
「あ、往人さん、おはようだよ」
「ああ、おはよう」
何気ない朝の挨拶もなかなか良いかもしれない。
その後、二人して階段を降り、リビングに向かう。トントン、という包丁の音が聞こえてくる。何となく照れくさくなり、それを隠すように挨拶した。
「おはよう」
「あら、おはよう。今朝は二人とも早いのね」
「何だ。名雪も寝坊したのか?」
「昨日はしてないよ〜」
「でも普段は遅いじゃない」
「お母さん、そんな事言わないでよ〜」
はいはい、と秋子が笑みを含んだような言葉を返す。それを見て、名雪がちょっと困ったように口をを尖らせた。そんな母子のやりとりを見て、思わず俺も笑みを零す。
「うう〜・・・往人さんまで・・・」
「すまんすまん」
タンタンタンタン
そんなやりとりをしている間に祐一も起きたようだった。足音が聞こえてからしばらくすると、祐一が顔を見せた。
「信じられん・・・名雪が二日連続でちゃんと起きてる・・・あ、往人さん、秋子さん、おはようございます」
開口一番がそれだった。名雪が早起きするのはそれほど珍しいらしい。
皆で朝食を摂った後、名雪と祐一は学校へ行った。朝食に時間を掛けすぎた、と言って急いでいた。その様子をみてまた俺は笑みを零す。
朝食後、俺に宛がわれた部屋に行き、横になる。
賑やかな食卓。家族の団欒。それは味わった事の無いモノだった。少なくとも記憶には無いものだ。幼い頃から母と二人きりで旅をし、今では一人で旅をしている俺には。
旅先で情を掛けて貰った事は何度かあった。だがこの水瀬家で味わう雰囲気はそれとは違っている。まるで自分を本当の家族だと思ってくれているようだった。
家族か・・・
人々は皆、もっている筈のものだ。得られるはずの安らぎだ。
だけど。
ふと脳裏に観鈴の顔が浮かぶ。何処かに悲しさを秘めたあの笑顔が。
アイツはそんなささやかなモノすら手に入れる事は出来なかった。俺はそんなささやかなモノすら与えられなかった。俺にはそれが出来たはずなのに。俺はアイツを救う事が出来た筈なのに。ずっと一緒にいられる筈だったのに。それなのに・・・俺は・・・
気付くと涙が零れていた。
慌てて拭っても後から後からそれは俺の眼から溢れ、床に落ちた。それを抑えるかのように立ち上がろうとしても足がおぼつか無い。ぺたん、と床に腰を落としてしまう。ここまで感情が揺れる事は久しぶりだった。
ようやく気持ちを落ち着けると下の階に向かう。
どうせアルバイト情報誌を読んでいてもしょうがないと思い、代わりに家の手伝いをしようと考えたのだ。その事を秋子に申し出ると、結構喜んでくれた。やはり一人では大変だったらしい。
家事なんてやるのは何年ぶりだろうか?掃除、洗濯、買い物、食器洗い、等等。なかなかの重労働だった。慣れていないのもあるだろう。かなりの時間が経ってしまった。途中で昼飯とかで中断したりもしたからな。
気付けば空が曇っていた。朝はいい天気だったんだがな・・・そういえば今日は昼過ぎから降る、と天気予報で言っていた。さっさと洗濯物を取り込む事にする。ついでに祐一や名雪の部屋のシーツも取り替えるか。
そんな事を思い、先ずは祐一の部屋に入った。
______________
空には雲ひとつなく、実に清々しい天気だった。気温もこの季節にしては高い。寒いのが苦手な俺には嬉しい限りだった。
が。
何故、大雨が降るのだ。しかも下校途中に。これは全くの予想外である。当然、傘も持ってきていない。雨を遮る物といえば鞄一つ。そりゃ寒いわ。さっさと家に帰って暖まろう。
パシャパシャと水を踏みながら水瀬家へ急いだ。
玄関に入り、ただいまの挨拶をして、秋子さんからにタオルを受け取る。さっさと着替えないと風邪をひきそうだ。やや足早に自分の部屋に向かう。
______________
シーツを取替えに祐一の部屋に入った時、そこで見慣れない物を見た。いや、人物というべきだろうか。それはベッドの脇に隠れるように落ちていた。
見知らぬ少女の写真。小柄で病弱そうな黒髪の少女だった。
本当ならそれだけで何だ、という訳では無かったろう。だがそれが妙に気になった。特に理由は無かった。直感的に「何か」感じたのだ。そう。さっき自分が感情を揺らした時に似た「何か」を。
ガチャ
不意に、思考を破ってドアが開く。祐一だった。
「あれ?往人さん。何してんだ?」
「ああ。シーツ換えに来たんだが・・・これ、誰だ?」
言って自分の手にある写真を見せる。すると・・・明らかに祐一の表情が変わった。感情がはっきりと、伝わってくる。その感情はまさについさっきの自分と同じモノだった。
「誰だっていいだろ」
祐一は只、そう言った。祐一らしからぬ声。そこから感情を押し殺しているのが判る。
「お前も過去に囚われてるのか」
思わず口から零れた言葉。それは自分自身にも言っている様だった。
「・・・着替えるから出て行ってくれ」
祐一は答えず、俺を部屋の外に追い出した。
部屋から出されると、ふっ、と足に力が入らなくなり、腰を落としてしまった。再び俺の中に去来する、あの感情。それに必死に耐え、名雪の部屋へ向かった。
_____________
タオルで濡れた髪を拭こうともせず、着替えようともせず、ただその写真を見ていた。今はもう居ない、その少女を。心臓を鷲掴みにされたような、そんな感覚。それがただ、苦しかった。
往人さんは俺が「お前も過去に囚われている」と言った。不思議な人だ。当っている。
・・・「お前も」?それは往人さんも過去に囚われている、という事か?
しばらく考えていた。だがそれでどうなる訳でもなく、夕食の時間になった。皆の前で往人さんにその事を訊くのも咎められ、結局その日は訊かずに、眠りに就いた。
11/21
・・・暑い・・・冬間近とは思えなかった。しかしすぐにそれが気温のせいではないと判った。どうやら風邪をひいたらしい。自分の額に手を置くと、結構熱くなっていた。昨日、濡れたまま放っておいたせいだろう。今日は学校を休むとするか。
だるい体に鞭打ち、リビングへ向かう。そこにいた秋子さんと名雪にその旨を話す。ついでに体温計も借りてきた。再び自分の部屋に戻り横になって、体温計を腋に挟む。・・・39.2
そりゃ熱いわ。寝よ・・・
_____________
リビングに下りると既に名雪の姿は無く、秋子が濡れタオルを用意していた。
「あ、往人さんおはよう。祐一さんが風邪をひいたみたいだから見てくるわね。御飯は用意してあるから」
そう言って秋子は二階へ上がっていった。テーブルを見ると確かに食事が容易されていた。ふとコンロを見ると、粥が作られていた。持っていってやるか・・・
粥の入った茶碗と箸を乗せた盆を持って二階の祐一の部屋に向かう。部屋の前にてノックを二回。ドアを開けた。と、丁度秋子が部屋から出るところだった。俺の手元を見ると、「あとはお願い」と言い、彼女は部屋を出て行った。
「粥持ってきてやったぞ。食え」
言って盆を机の上に置いてから、箸と茶碗を祐一に渡す。祐一は体を起こすと、それを受け取った。
「ああ、サンキュ」
「ちゃんと寝ろよ」
長居する必要も無いので、そう言って部屋から出ようとした。が。
「なあ、往人さん。‘過去に囚われている’ってどういう意味だ?何であの写真を見てそう思ったんだ?」
祐一が俺を呼び止めた形になった。
「そのままの意味だ。お前、過去に何かあったんじゃないか?例えば・・・」
言って、机の横にある椅子に腰を下ろす。
「大切な人を失った」
祐一の顔に再びあの時の感情が浮かんできた。やはり、祐一も俺と同じだったのだ。
「何で判ったんだ・・・?やっぱり写真なのか・・・?」
当然と言えば当然の疑問だった。感情の昂ぶっている時は、見えるものも見えない。
「写真を見ただけじゃ判る筈ないだろう。理由は、あの時のお前が撒いた感情だ。あの感情は俺も良く知っているからな」
「そうか・・・やっぱりあんたもか」
しばしの沈黙。
それを破ったのは祐一の方だった。
「死んだ人をいつまでも想うのって、いけない事なのか?」
「さあな。だけどそうだったとしても、忘れられないだろ。きっと」
少なくとも自分はそうだ。きっと忘れる事なんてできやしない。どんなに辛かろうとも。
「そうだよな・・・」
そう言う祐一は過去に耽っている様だった。それを見て、思わず自分も観鈴の顔を思い出していた。何故だか背中が疼いた。
11/22
今日は学校が休みらしい。また遅起きしたが名雪が居たからだ。相変わらず祐一は風邪らしいが。
朝食を摂っていると名雪が話し掛けてきた。
「ねえねえ、往人さん。今日、暇?」
「ふぃまとひえばふぃまだが」
御飯を口に入れながら返事を返した。因みに「暇と言えば暇だが」である。
「買い物付き合って欲しいな〜、なんてね」
「その位なら構わないが」
「じゃあ、お昼から付き合ってね」
言って名雪は、鼻歌を歌いながら二階へ向かっていった。
とりあえず、これで予定は埋まった。一日中、家事をやるよりもずっと楽そうだしな。
が。
甘かった。俺は女の買い物をはっきり言って舐めていた。あちこちの店を歩き回り、長時間悩み続け、相当の量を買い込む。そしてその量を全て俺が持つ。力には自信があったが、これは精神的にも参った。結局、疲れた。そして腹が減った。
買い物の最後に名雪が奢ってくれると言い、「百花屋」という喫茶店に入った。これでちょっとは休めると言うものだ。両手に持った荷物を降ろし、自身も椅子に腰掛ける。テーブルを挟んだ、反対側の椅子に名雪が腰掛けた。
「ご注文はお決まりですか?」
「えっと、イチゴサンデー」
店員の言葉に名雪は即座に反応した。間違いない。こいつ、常連だ。
「そちらのお客様は?」
「同じの」
メニューを見てもどんなものだか判らないので、名雪に合わせた。
「かしこまりました」
言うと店員は店の奥へ戻って行った。
「あー、背中痛え」
「ごめんね。重たかった?」
「久々に重たいもの持ったな。まあ別に構わないが」
カラン
乾いた音と一緒に客が来たようだった。その客を見て名雪が、あっ、と反応した。向こうも名雪に気付いたらしく、あっ、と反応した。知り合いらしい。自分もその客に視線を移す。女と男の二人組みだった。二人とも名雪と同年齢といったとこか。女はウェーブ掛かった長い黒髪だった。何処かで見たような顔立ちだったが、無論知る筈も無い。既視感?男の髪は短く、やや金に近い茶髪だった。こちらはいよいよ顔に憶えは無い。そして両手に抱えた大量の荷物。同士だな・・・
「名雪〜。用ってデートだったの?あら、彼氏結構格好いいじゃない」
女の方が名雪に話し掛けてきた。しかも誤解している。
「彼氏だなんて・・・そんなんじゃないよ〜」
名雪は顔を紅潮させて返している。それが誤解を招くんじゃないか?
ふと男が口を開いた。
「香里〜、早く座らないか?俺もうヘトヘト・・・それにデートの邪魔は野暮ってモンだろ」
こっちも誤解している。
「それもそうね。じゃあ楽しんでね」
「香里もだよ〜」
相変わらず紅い顔で名雪が言い、二人はここから幾らか離れた席に着いた。と、同時に店員がイチゴサンデーなるものを運んできた。
早速、スプーンで口に運ぶ。・・・結構美味い。苺の甘さがカラの胃袋に沁みる。
「美味しい?」
「ああ。美味い」
名雪は何とも幸せそうにスプーンを口に運んでいた。よほどこのイチゴサンデーが好きらしい。
「私達って・・・」
「ん?」
スプーンを少しだけ止めた。
「私達って周りから見ると、恋人同士に見えるのかな?」
先ほどの名残か、顔がまだ紅潮していた。
「少なくともさっきの二人からはそう見えたらしいがな」
再びスプーンを動かす。
「ちょっと嬉しいな・・・」
「ん?何か言ったか」
「ううん」
イチゴサンデーを食べ終え、店から出る頃には日も沈みかけていた。
帰り道。やっぱり荷物持ちは俺だった。尤も全部ではなく、今は少しだけ名雪が持ってくれていたが。
「ところでこんなに沢山、一体何を買ったんだ?」
持たされる側として、当然の疑問だ。
「えっと、洋服とか、お人形とか、目覚まし時計とかだよ」
「人形とか目覚ましって、どっちもお前の部屋に大量にあったぞ。あれ以上要るのか?」
「同じやつじゃないから欲しいんだよ、ほら」
名雪は袋の取っ手に手首を通すと、中から目覚ましと人形を取り出した。目覚ましは白くて、猫を象ったようなデザインだった。もう片方の手にある人形は・・・・
恐竜だった。
ズキ!
「く・・・」
思わず背中に走った痛みに顔をしかめる。
「ど、どうしたの?」
名雪が心配そうに近付いてきた。その手には恐竜の人形。
ズキ!
「・・・く・・・済まないが・・その人形・・しまってくれないか・・・」
「え?」
「しまってくれ・・・」
「あ、うん・・・」
名雪が人形をしまうと、痛みは和らいだ。一方の名雪は、何がなんだか判らない、という顔をしている。
「・・・」
「・・・」
しばらく無言だった。
「恐竜の人形は嫌いなんだ。辛い過去を思い出しすぎる・・・」
「・・・ごめんね・・・」
「いや、お前が気にする事じゃない」
「でも・・・私のせいで思い出しちゃったんだったら・・・」
「いいさ。どちらにせよアイツは、俺の心に住み続けているんだからな」
「あ・・・うん・・・」
名雪は何かを言い掛けたが、すぐにそれを喉の奥へ押しやった。少なくとも俺にはそう見えた。
家へ向かい、俺たちは再び歩き出す。
_______________
家に帰ったらお母さんの料理が待っていた。お母さんの料理はいつも美味しいけど、今は食欲が湧かない。皆より早くごちそうさま、と言って、今日買った物を持ち二階の自分の部屋へ行く。
紙袋を開いて、買った物を整理整頓。洋服をタンスに直したり、お人形や目覚し時計をあちこちに置いたり・・・
そして最後に残った、置く場所の決まらない恐竜のお人形。
ベッドの上に転がって、それを見ていた。往人さんはこれを見ると、「過去を思い出す」って言ってた。辛い過去を。往人さん・・・昔、何があったんだろう・・・なんで思い出すと背中が痛むんだろう・・・普通の痛がりかたじゃなかったな・・・アイツって誰なんだろう・・・
・・・私はその人の代わりにはなれないのかな・・・
色んな疑問が浮かんでくる。だけど私はそれに答える事はできないよ。往人さんじゃないと答えられないんだよ・・・
ベッドから起きて、往人さんの部屋に向かう。ノックを二回。ドアを開けた。
「往人さん・・・居る・・?」
往人さんは窓から空を見ていた。もしかしたら空よりもっと遠い所を見ていたのかもしれない。その横顔は酷く寂しそうで、とても儚く見えた。
私には気付いてないみたい。もう一度名前を呼ぶ。
「往人さん」
「ん?名雪か。どうした?」
答える往人さんの顔はいつもの往人さんだった。
「今日、背中が痛かったんでしょ・・・あれ、どうしてなの?」
「・・・」
「往人さんの過去と何か関係あるの?往人さん・・昔、何があったの?」
「・・・」
往人さんは俯いて答えなかった。
冷静に考えて、私は馬鹿な女だった。そんな知り合って一週間も経ってないのに、自分の‘辛い’過去を話して貰えるはずがないんだから。一緒に住んでいてもやっぱり‘他人’なんだよ・・・
「話したくないんだったらいいよ・・・訊こうとした私が悪いんだもんね・・・」
私は往人さんの心に関わる事はできない。そう思うと悲しくなった。
「じゃあね・・・おやすみ」
ドアノブに手を掛ける。
「待て」
ドアを開けようとすると、後ろから声がした。
「話してやるよ。ちょっとは楽になるかも知れないからな・・・」
それから往人さんは一年前の夏の事を話してくれた。
神尾観鈴という女の子の事を。
手も触れずに人形を動かす力。翼を持った少女。その少女に掛けられた呪い。
最初は私をからかっているんだと思ったけど、往人さんの眼は真剣だった。話の後、往人さんは自分の背中を私に見せた。そこにある傷痕を。何かに斬られたような痕だった。
「この傷が出てきたのはつい最近の事だ。そしてだんだん大きくなっている。最初は背中の真ん中に少し切り傷がある程度だった。だが今ではこんなにでかくなった」
往人さんの言うとおり、傷痕は肩口から背中の真ん中辺りにまで達していた。
そして私は往人さんの話を全て信じようと思った。
「私は観鈴さんの代わりにはなれないのかな」
「無理だ」
「そっか。そうだね。ごめんね、変な事訊いちゃって」
「いや・・・」
「じゃあ、もう行くね。・・・話してくれて有難う」
「俺の方も喋ったら少し気が楽になった。礼を言う」
「おやすみ」
「ああ」
11/23
夢を見ていた。昔の記憶を。もう戻れない日々の中に俺は居た。観鈴と一緒に過ごした時間の中に。夢の中で俺が観鈴と離れると、俺は現実に引き戻された。そして俺に残されたのは・・・
悔恨の念と、背中の痛み。
体を起こそうとすると、その痛みに阻まれる。これ程の痛みは初めて・・いや、前にも一度だけあった。あの夏の日に。
そのまま、ベッドに横になっていた。この痛みのせいで、まともに動くのも億劫である。
何時間そうしていただろうか。ノックの音がして、秋子が部屋に入ってきた。何時まで経っても俺が下に来ないので、心配してくれたらしい。背中の痛みの事を話すと、病院に行くか尋ねられた。それは断る。これは怪我でも病気でもないのだから。
休ませてくれ、とだけ言うと、「何かあったら呼んで頂戴ね」と言って部屋を出て行った。家族というのは、本当に有り難いものだ。
そして俺は再び眠りに就く。
また夢を見た。やはり昔の記憶を。今度は幼い頃、母と旅していた時の夢だった。何故今ごろこんな夢を見るのだろうか。
夢から覚めると、名雪がいた。学校はもう終わったらしい。空もオレンジ色に染まっていた。
「あ、往人さん大丈夫?」
「ああ」
肯定を返すが、体を起こすだけで倦怠感に包まれた。眩暈もする。体をふらつかせて、布団の上に手を置くと、ようやく起きる事ができた。
「無理しちゃダメだよ。往人さん、凄い熱なんだから」
言われてからようやく自分の体が熱いことに気付いた。どうりでだるい筈だ。
ノックする音が聞こえ、盆を持って祐一が部屋に入ってきた。
「飯持ってきたぞ」
言って盆を床に置いた。
「まさか俺の風邪が移ったか?」
俺の代わりに名雪が答えた。
「往人さんは風邪なんかじゃないんだよ・・」
「え?じゃあ何なんだ」
「うーん・・分かんない」
「じゃあ、風邪だな。ほら下行くぞ」
言って祐一は名雪を連れて下に戻ろうとした。
「え・・でも」
「往人さんの体に障るだろ。お前にも移るかも知れないし」
「往人の言うとおりだな。一人でも大丈夫だからお前も飯食っておけ」
俺が言うと名雪は納得したらしく、祐一と一緒に下へ降りていった。
部屋で一人、粥を食べながら考えていた。
何故、過去の夢を見たのか?
偶然と言ってしまえばそれまでだが、そうではないような気がした。それに、似ている。観鈴が見ていた夢と。アイツは「だんだん夢は過去に遡って行く」と言っていた。今のところ、俺の夢は過去へ向かっている。これからは一体どうなるんだろうか。やはり俺の見る夢は観鈴と同じものなのだろうか。俺は全てを忘れて、死んでしまうのだろうか。体に宿った熱と、背中に憑いた痛みが不安を掻き立てた。
そしてその疑心は確信に変わる。
次に俺が見た夢は、俺と同い年ほどの母親の夢だった。俺の知らない、知る筈の無い母親の旅の記憶。
もう、偶然とは思えなかった。
11/24
背中の痛みが酷くなっていた。夢も過去へ遡っている。既に疑う余地なぞ無かった。
このままだと俺は秋子や祐一や名雪の事も忘れてしまうだろう。あいつらの前で記憶を無くすのは嫌だった。
・・・旅へ戻ろう。そう決心する。
早速荷物を纏め、旅立つ準備をした。その荷物を持ち、下へ向かう。その重量が背中の傷に響いた。
「今日で出て行こうと思う。短い間だが世話になった」
台所の後片付けをしていた秋子に言った。
「え・・・?」
驚いたような、残念そうな、そんな顔を浮かべた。
「もっとゆっくりしていけばいいのに。まだ体も治ってないでしょ?」
「いや、大丈夫だ」
精一杯の虚勢を張る。熱はひいたからそれでバレるような事は無いはずだ。
「でも旅費は?バス代とか大丈夫なの?」
「大丈夫だ。歩けばいいんだからな。今まで何度もやっている事だ」
秋子が俺の傍らにある荷物に目をやる。
「今すぐ出発するの?」
「ああ。すぐにでも出て行かなければ次の町までに日が暮れちまう」
秋子がじっと俺の眼を見つめる。すると
「何か事情があるみたいね。・・・名雪達には私から言っておくから。それと・・・」
秋子はその場を外して何処かへ向かった。しばらくすると白い封筒を持って帰ってきた。
「困ったらこれを使って」
そう言って袋を渡される。
「恩に着る・・・」
秋子は玄関まで見送ってくれた。
「またこの町にも寄ってくださいね。名雪達もきっと喜びますから」
「ああ。きっとまた来る」
そう言って、俺は再び歩き出した。
旅の途中で、背中の痛みの原因が判った。過去へ遡る夢から得た知識だ。この痛みはやはり‘翼ある少女’に掛けられた呪いだった。
夢の中に出てきた、裏葉という女性はこう言っていた。
「私は法術で逸らす事が出来ますが、柳也様は・・・」
観鈴の下を去って以来、俺は法術が使えなかった。この背中の痛みは、その影響だったのだろう。
それ以来、俺は呪いを解く方法を探した。幼い頃の記憶と、夢で見る記憶を頼りに、あちこちを歩き回った。しかし、いくら探そうともそれは見つからなかった。
水瀬家を去って、どれ位の月日が経ったのだろうか。雪の名残こそあれど、春がすぐそこまで来ていた。再びこの町に着いたのはそんな時だった。観鈴と初めてであった、この町に。何もここに来ようと思っていた訳ではないのに、来てしまった。まるで呼び寄せられたかのように。
季節こそ違えど、あの頃と変わっていない。武田商店のどろり濃厚ジュースもまだ売っていた。観鈴以外に買う人間は居るのだろうか?
堤防の方へ行ってみる。何度もこの場所に立った事だろう。そこから見える砂浜では、青い髪の少女が遊んでいた。
そして神尾家に向かった。本当に。本当に久しぶりの場所だ。この町の何よりもそう思う。
だが観鈴に逢う訳にはいかなかった。俺が近づけば、観鈴もまた、病んでしまうだろう。少なくとも、俺は助からない。やはり、この町は去るべきだ。バス停へ向かおうと、神尾家に背を向け、視線を新たにする。そして、歩き出した。
バス停へ向かう途中、武田商店の自販機前に人影があった。何とも珍しい光景に出くわしたものだ。ある程度近寄ってみると、それは晴子だった。尤も向こうは全くこっちに気付いていないようだが。久しぶりに見た顔だったし、観鈴も居ないようだったので声を掛けた。
「晴子」
「何や、人が悩んどる最中に・・・」
晴子が俺を見るが早いか、俺はもう一声掛ける。
「久しぶりだな」
「おお〜!居候やないか!!ひっさびさやな〜!元気でやっとったか!!」
「まあそれなりにな」
「いつ頃この町に戻って来たん?教えといて欲しかったわ」
「この町に着いたのはついさっきだ。それに、戻ってきた訳じゃない。また出て行くさ」
「なんや。また出て行くんか。いつまでこの町に居るん?」
「すぐ出て行くつもりだ。もともと目的地は別にあるからな」
「何や・・・残念やな」
「じゃあな。俺はもうこの町を出るから。それと俺がこの町に来た事は観鈴には言わないでくれ」
「何や。観鈴に逢ってかんのか」
それはできない。それにすぐに俺は立ち去るのだ。逢ったところで観鈴が悲しむだけだ。
「折角体も良うなったのにな。癇癪起こすのも治ったし。おさまったのは11月くらいやったかな。お陰でちょっとやけど友達もできたみたいや」
「そうか・・・良かった・・・」
観鈴は救われていたのだ。もう、孤独じゃなかったのだ。ちょっと目頭が熱くなった。
「じゃあな」
「ああ、サイナラや」
再び俺は旅路に就く。目的地は恐山金剛峰寺だ。これも又、夢から得た知識。最後の翼人、神奈が呪いに囚われた場所だ。俺の時間は既に残り少ない。行く事のできる場所はここが最後だろう。ここにその呪いを解く方法がなければ・・・
俺はその方法がここにある、と自身に言い聞かせ、山へ上った。
先ずは金剛峰寺の方へ向かった。住職に頼み、寺の文献を見せてもらう。だが、そこに翼人に関する言葉は無かった。
寺を後にして、俺は夢を頼りに呪いを解く方法を探そうとした。そして恐山の深い山中に足を踏み入れた。
背中の痛みは恐山に入ってから、数段と強くなっている。まるで、山が俺を拒否するかのように。太陽が沈むと共に眠り、夜が明けると共に目を覚まし、一日中‘それ’を探す。だが、非情にも時間だけが過ぎ去り、背中の痛みが俺の生命を削り取っていった。既に体は疲弊しきっている。それでも夢の記憶を頼りに、ひたすら探し回った。
一体、どれほどの間探し続けただろうか。それすらももう分からなかった。やはり、ここには呪いを解く方法など無いのだろうか。
疑心を表に出すと、後は脆いものだった。疲弊しきった体では、一度でも弱った精神を支える事はできない。
その場で仰向けに倒れ、空を見上げていた。
背中の痛みは既に限界を超えている。死はすぐそこにあった。にも関わらず、恐怖は感じなかった。死ねば楽になれる、その時はそう思ったからかもしれない。
薄れゆく意識の中で、色々な事を思い出していた。
幼い頃の、母との思い出。
消えた母を捜すための旅。
観鈴と出逢った夏。
水瀬家で過ごした一週間。
走馬灯の様に浮かんでは消えていく、大切な思い出。もう一度戻りたい日々。だが俺に打ち込まれた呪いという楔はそれを許さず、生命と記憶を奪っていく。抗う術は無く、ただ身を任せるのみ。
それでも俺は願う。
−もういちど、みんなに、あいたい−
静かに、星と月が空を彩っていた。
終